それは、新しいアパートで一人暮らしを始めて三ヶ月ほど経った、夏の夜のことでした。その日の夕食は、少し気合を入れてパスタを作りました。洗い物を終え、綺麗になったキッチンを眺めて満足感に浸っていた、まさにその時です。シンクのステンレスの壁を、小さな茶色い点が、信じられないほどの速さで横切っていきました。一瞬、何が起きたのか分かりませんでした。ただのゴミが水の流れで動いただけだろうか。しかし、私の視線がその点を追うと、それは再び、今度はコンロの方へと駆け抜けていきました。細長い触角が、微かに見えた気がしました。心臓がドクンと大きく鳴りました。嫌な予感が、背筋を駆け上ります。震える手でスマートフォンを掴み、「キッチン 小さい 茶色い 虫 早い」と検索しました。画面に表示された画像と、先ほど見た物体の姿が、完全に一致しました。チャバネゴキブリ、幼虫。その文字を見た瞬間、私の城であったはずのキッチンは、一瞬にして敵地に変わりました。それからの日々は、疑心暗鬼との戦いでした。食器棚の扉を開けるのが怖い。冷蔵庫の裏を想像しては鳥肌が立つ。夜中に物音がすると、彼らが活動しているのではないかと眠れなくなる。たった一匹の、ほんの数ミリの虫が、私の生活と精神をここまで蝕むのかと、絶望的な気持ちになりました。このままではいけない。恐怖に支配されるくらいなら、戦ってやろう。私は意を決して、ドラッグストアで毒餌タイプの駆除剤を大量に購入しました。そして、ネットで調べたゴキブリが好みそうな場所、家の隅という隅に、祈るような気持ちでそれを設置していきました。同時に、徹底的な掃除も開始しました。あの恐怖が、私の人生で最も真剣な掃除のモチベーションになったのは皮肉な話です。数週間後、ぱったりと彼らの姿を見なくなりました。あの日の恐怖は今も忘れられませんが、同時に、あの恐怖があったからこそ、今の清潔な部屋があるのだとも思います。